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昭和五十六年六月 白鳥長久公顕彰碑建設奉賛会長 |
戦国争覇の時代、わが郷土白鳥に興り、谷地に進出し、まさに中原に勢威を張らんとするとき、敢えなくも非業にたおれた白鳥長久公は、四百年後の今日、尚郷党に語りつがれ、人々の心に生きている。けれどもこの英雄の人物を伝えるものは殆ど堙減して語るによし無く、わずかにお城山々頂、十郎松の松籟に音を偲ぶより外はない。 今、郷土出身の篤志家三氏の厚志によって、白鳥長久公顕彰碑並びに城址碑が、公の故地城址が丘に建立され、大いにその遺徳を顕彰することとなった。これまで谷地町においては、公の追悼式をしばしば行ってきており、追悼の意をあらわしている。今日、発祥の地わが白鳥に堂々の建碑をみるにいたったことは、長久公顕彰のために意義深いものがあると思う。 私はこの建碑を機会に、目頃調査し、研究し、あたためてきた考えを書きしるし、記念誌とするには甚だ忸怩たるものがあるが、大方諸賢の高覧に供したいと考えた。 これまで白鳥長久公について書かれてきた多くの軍記、物語及び最近の歴史・読物類などによって、白鳥氏関係の資料の殆どが出尽くしてしまった観がある。その多くが私共にとって傾聴に値するものではあるが、尚虚像、実像取りまぜて述べられていると思うのである。これは史料の不足からくることで止むを得ないことではあるが、私共は白鳥長久に対して、もっと公正な人物評価を行わなければならないと考える。そのために私は伊達家記録に残る白鳥長久の活躍と、現地白鳥に残る遺蹟の考察とから、その実像に迫ろうと考えて、この一文を組み立てたつもりである。 尚、戦記物についてひとことふれておきたいのであるが、江戸時代入って編述された軍記.物語の多くは、最上家中心にかかれており、義光以後わずか三代にして滅んだ最上家に対し同情的立場をとっている。天正十二年(一五八四)白鳥長久滅亡後数十年を経過して、寛永十一年(一六三四)最上家遺臣の手によって編集された「最上記」(最上義光物語と同じ)が、当然のこととはいえ、最上側に立ち白鳥側を冷やかに叙述していて、とても白鳥長久の人物、立場を公平に理解しているものとは考えられない。 これはひとり最上記ば言でなく、戦記・物語の多くに通ずることであって、たとえば秋田の人で最上氏とはかかわりがなく、かつ諸国を巡遊して広い知見もつと考えられる戸部一?斎正直が元禄十一年(一六八九)に完成した「奥羽永慶軍記」にしても 「いかにも山形を亡ぼし、最上三郡を手に入れ、国中の大将に成らばやと、明暮れ心にかげげるが、兎も角も、信長将軍にまみえ、媚をなし、其の後一揆を起さんと議せられけれども…以下略」 といつた記述で、きわめて冷たい態度である。思うに当時すでに完成した幕藩体制の中では、杜会秩序の維持が第一義で、この道徳と史観からみて、白鳥長久は義光の打立てようとした秩序に服せず、最上の領国制を妨害せんとした野心家、体制反逆者として位置づけられる史観がすでにできていたためであろう。 もとより不学菲才で、意図するところを果し得ているとは思えないが、希くは、義光と共に出羽の双傑として、評価さるべき英雄であることを理解して頂きたいものと念願する次第である。 ![]() 顕彰碑 碑陰文より抜粋 古城主白鳥十郎長久公は、戦国時代、今より凡そ四百年前この地に出で、後、谷地に進出し、寒河江一族と結び、 河西諾将の盟主として勇名を四方に轟かし、山形城主最上義光と共に、出羽の双傑と祢せられる。然るに義光、父祖 伝来の門地と地の利に乗じ着々と勢威を張る。長久公、義光と覇を競い、遂にその謀略により山形城に誘殺されて亡 ぶ。天正十二年(一五八四)六月七日であった。 白鳥氏、もと奥州安倍氏の裔と伝えられる。長久公の生年、治績等、亡滅の歴史の故に今日これを詳かにするを得 ないが、本城大白山及びこれを繞る城郭遺構、その他碁点(御殿)城、鳥屋森、毛倉森、柏木森等の支城遺跡、さら に宮下八幡宮、樽石川上流より引水の用水堰や御料堰の遺構等に、公の雄大な経綸の一端をうかがい知ることができ る。 注) ・本文は『白鳥長久公』 (昭和56年 白鳥長久公顕彰碑建設奉賛会発行 白鳥長久公顕彰碑建設奉賛会長著)の記載をもとにサイト作成者が編集したものです。 ・原文にある個人情報に該当すると思われる箇所については記述を省略または改変しております。 本サイトの内容を、無断で複製・改変することは禁止いたします。 |
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